「地獄大学」9 週一回は朝まで街を徘徊
「週一回は朝まで街を徘徊」。
??と思った読者の方もいるだろう。
私は週一回、水曜日に愚論荘に夜間に呼び出されていじめを受けていた。
私の住む北村荘は門限があり11時。当然それまでに帰してもらえない。だから
その日は外泊を申し出る。いじめが終わり解放してもらえるのは日付が変わってだいぶ経ってからだ。だから翌朝の5時に北村荘の玄関の鍵が開くから5時ちょっと過ぎにひょっこり下宿に戻るのだ。おそるおそる下宿の廊下を通り自分の部屋にこっそりと入る。そして短い時間寝る。そしてから何食わぬ顔をして朝食を食べて授業に出かける。
それをほぼ四年生までやってきた。長期間ではあるがずっと連続ではない。そりゃ季節休暇などで帰省している期間も長いし四年生は就職活動で地元に帰っていることも多いからだ。授業がない日が続く場合は遠慮なく地元に帰っていた。連中から逃れるために。当然だ。帰省のための交通費は結構かかったが。私は公共交通機関に乗ること自体は大好きだ。だから苦痛ではなかった。むしろ楽しい。今もそう。それは幸いした。
で、読者の方はこう思うだろう。
「なぜ、逃げない?毎週ただ呼び出されるだけか?」
「門限のない下宿とかアパートとかに移れはいいのに」
「門限について融通利かせてもらえなかったのか」
「下宿の人たちにどう思われていたのか」
「そんな泥沼化した学生生活なんて。大学を辞める選択肢はなかったのか」
何度か水曜日に用事を作ったり他の友人に会いに行ったりして連中に会わないようにしたこともあった。門限近くの時間になってに北村荘に向かうと連中の車が停まっていた。突破できれば良いが突破出来ないと連中と強く揉み合いになったこともあった。騒ぎで近所迷惑になりそうになった。仕方なく毎週ノコノコ出かけて行った。
私が門限のない下宿やアパートに移ればそれこそ連中が押しかけて地獄になる。
私だけの都合で門限が融通できるわけがない。門限破りで私は強く睨まれた。
もう下宿に人たちも北村おばさんも私が毎週「外泊」で慣れてしまっていた。いじめが原因とは表面上は知る由もなかったし。ただ後にバレるけど。熱血的な佐木先輩は四年生であまり片銀市にはいないし彼が卒業してから連中は私を頻繁に呼んだ。
私は推薦入試で入学した。推薦で入学しておいて退学すると高校の校長が謝罪に呼び出されると聞いていた。後輩の推薦枠もなくなる。それは避けたい。だからやせ我慢した。大卒という学歴も欲しかったし。
激しいいじめが常態化したのは二年生になってからだ。
一年生。当初の若者として幸せだった時期と高岡やその取り巻き連中に目を付けられ始めて小突かれていた時期とインチキ宗教に入らされていた時期と。色々あった。夜間の呼び出しいじめが常態化したのは二年生になってすぐからだった。そこから卒業までが無間地獄だったのだ。
二年生になった。
前の記事にも書いたが角松は授業に徐々に出席しなくなっていた。憂さ晴らしだか何だか知らないが、だから角松は週一の水曜日の深夜に私に暴力を振るうことになる。
そしてもう一人いじめメンバーが加わった。それは疋田(仮名)。紺野と当初から親しかったらしい。一見普通の人間に見える。暴力的ではないが嫌味っぽかった。
いじめの基本パターン。水曜日の夜間に愚論荘に呼びだされる。少し間をおいて市街地のカラオケ屋に連れていかれる。カラオケ部屋でも小突かれる。しばらく連れまわされ深夜に愚論荘に戻り、角松がやってきて私をボコる。そして解散。下宿に門限で帰れない私は「外泊」扱いで朝まで片銀市内を徘徊するのだ。
でも徘徊時間は私にとっては嫌いではなかった。やっといじめから解放された安堵感があるし何より私は街歩きが大好きだ。タモリさんのNHK番組の「ブラタモリ」ではないけれどフラフラと夜間の市内を歩いて散策した。
私は今も昔も地図を見るのが好きだ。それもあるかもしれない。
大きい片銀市は歩き甲斐があった。中心街のビル群や駅前なんかを歩くときは誇らしかった。大きい街の住人の一員って感じで。郊外の寂しいところはちょっと怖かった。悪い奴に絡まれたことはなかったけど。そして朝日が差し込んで輝いた大規模な住宅地なんかは綺麗だった。整備された綺麗な街路樹や住宅地は見るのも歩くのも好きだった。
そう思わないとやっていけない?いや街歩きが好きだったから息抜きになってずっと耐えられたんだと思う。地獄の中のオアシスだったのか。